"この本を読んだおかげで、私は自分の息子に対する見かたが変わりました。もうそこにいるのは自閉症の子供ではありません。自閉症のなかにいる少年が見えるようになりました。そう見えてくると、暗い気持ちもなくなってきます。どうすれば、息子を覆っているこのバリアに穴をうがつことができるだろうか、といったことを考えられるようになるのです。"
"「僕たちは、自分の体さえ自分の思い通りにならなくて、じっとしていることも、言われた通りに動くこともできず、まるで不良品のロボットを運転しているようなものです。いつもみんなにしかられ、その上弁解もできないなんて、僕は世の中の全ての人に見捨てられたような気持ちでした。僕たちを見かけだけで判断しないで下さい。どうして話せないのかは分かりませんが、僕たちは話さないのではなく、話せなくて困っているのです。自分の力だけではどうしようもないのです。自分が何のために生まれたのか、話せない僕はずっと考えていました。僕は筆談という方法から始めて、現在は、文字盤やパソコンによるコミュニケーション方法を使って、自分の思いを人に伝えられるようになりました。自分の気持ちを相手に伝えられるということは、自分が人としてこの世界に存在していると自覚できることなのです。話せないということはどういうことなのかということを、自分に置き換えて考えて欲しいのです」
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 さて、今回の件がきっかけでふと思い浮かんだことがある。それは「音楽監督が芸術的な発展向上に寄与する実質的影響力っていったいどれくらいなのだろう?」ということ。
 小さい団体ならいざ知らず、一流と呼ばれる団体では音楽監督が担当する公演なんて半分にも満たないところが多い。いや、半分どころかほんの一部なんて場合もある。それでも音楽監督は芸術面の水準確保に責任も持つことになっている。一応は。
 だが、そんな中でいったいどれだけ責任を果たせるというのだろう。
 
 そもそも、だ。劇場からしてみれば‘実’よりも‘顔’が欲しいということもあるだろうし、指揮者にしたって立派な肩書や華々しい経歴が欲しい。両者ともに「箔を付けたい」という本音が見え見えだ。
 
 考えてみれば、監督と言っておきながら実際には全公演のうちの一部しか担わないというクラシック音楽界の常識は、他の分野からするとずいぶんと異質であり不思議だ。
 スポーツの世界では、試合によってベンチで指揮する監督をコロコロ変えるなんてことはあり得ない。相手チームの状況、諸々の条件、戦術等によって、それに長けた監督をその都度起用するというのは、個人的には何となくアリのような気がしないでもないが、現実には絶対にない。そんなことをしたら大混乱は必至だし、ファンも選手も納得しないだろう。
 
 でもクラシック音楽界ではそれが当然のごとくまかり通っている。同じ尺度で測れないまったくの別物と言ってしまえばそれまでだが、興味深い事象であることは間違いない。
 
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"つまり私の夢は、オンラインで視聴可能な私のレクチャーシリーズのようにビデオ講義を作成し、世界中の人に無料で公開することです。中国やインド、アフリカなど世界中の教育機関や大学と提携することも視野に入れ、市民教育の向上、そしてこの民主的議論の世界版を成立させたいと思います。"
"アリストテレスはこう指摘しています。「社会制度の目的や活動のどのような性質が賞賛と評価の対象となるか、十分な議論がなされた後でなければ、正義についての議論を行うことはできない」"
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